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【インタビュー】新自由主義は日本を貶斥社会に変えた

グローバルな共感は新しい「幸福」を生み出す

Actio(アクティオ』 2008.4.25. 6-7.所収

 


 

 世界的な規模で経済格差は拡大し、これに反発する人々の間には宗教的原理主義が台頭している。新自由主義=ネオリベラリズムは、こうした深刻な問題の元凶として批判にさらさることもある。新自由主義のどこが問題なのか、もうひとつの世界は可能なのか。北海道大学の橋本努さんに聞いた。

 

<新自由主義と拝金主義は別物>

■ネオリベラリズム批判が強まっています

 

 新自由主義=ネオリベラリズムとは、福祉国家体制の後にやってきた自由主義思想のこと。自由主義といっても、福祉の理念をすべて否定するのではなく、基本的には福祉サービスの意義を認めます。その上で、サービスをできるだけ民営化・多極化し、統治のパフォーマンスを上げることを目指している。

 「ネオリベラリズム」の「ネオ」とは、「後」という意味で、「福祉国家の後」。だから例えば、まだ福祉国家の段階を経ていないラテン・アメリカの諸国では、そもそも「ネオ」リベラリズムという言葉が当てはまらず、たんなる「経済的自由主義」と呼んだ方がいい場合もあります。

 歴史的にみると、新自由主義は1960年にハイエクが著した『自由の条件』にさかのぼります。80年代になると、とりわけ日米英の3国において、ハイエクやフリードマンの社会改革ビジョンが少しずつ実現していきました。アメリカではレーガノミックス、イギリスではサッチャリズムにより国営企業の民営化や福祉政策の見直しが行われました。日本では、電電公社の民営化(NTTの誕生)や国鉄の民営化(JRの誕生)などがその例です。

 80年代から90年代前半にかけて、新自由主義は時代の支配的な思想となります。ところが90年代後半、日本では金融ビッグバンが不発となり、ケインズ主義政策が復活する。またイギリスでは、「第三の道」を掲げるブレア政権が誕生します。フランスやドイツでも社会民主主義政権が誕生し、この段階で新自由主義はいったん克服されたとみなされました。

 ところが21世紀に入ると、さまざまな雑誌で新自由主義批判特集が組まれるようになります。これはいったいどういうことでしょうか。一部の論者にとっては、地域コミュニティの活力を動員する「第三の道」政策も、新自由主義の一形態にすぎないとされたからです。

 現代の新自由主義は、地域コミュニティの活性化(中間集団の強化)という考え方を含んでいます。しかしこれを全否定してしまうと、従来の福祉国家のようにすべて国が面倒を見るべきだとしかなりません。

 批判者たちの多くは、新自由主義という思想があたかも「拝金主義」や「市場原理主義」と同じものだとみなしているのでしょうが、だからと言って新自由主義から汲み取るべきものまで否定するのは行き過ぎです。

 

 

 

<格差拡大は文明の腐敗を生む>

■しかし日本が良くなったとは思えません

 

 なぜこれほど新自由主義批判が噴出しているのかといえば、それはおそらく、新自由主義の思想が、私たちの「幸福」や「不幸」という問題に対して、納得のいく答えを与えていないからでしょう。

 新自由主義の体制は、たとえ経済的に望ましいとしても、この体制に深くコミットメントすればもっと幸福になれる、ということはありません。「全体のパイ(経済発展の成果)が大きくなる」からといって、それだけの理由でこの体制を信奉するというのは、深みのない、浅薄な人生観・社会観に陥ってしまうでしょう。

 また、国民全体にできるだけ均一のサービスを提供することを目指した福祉国家とは異なり、新自由主義の体制の下では、人々の努力が正当に報われるのではなく、生まれた家庭環境や、経済地勢学的な位置によって、その後の人生が大きく左右されます。

 例えば雨宮処凛さんは北海道の出身で、美術系の大学を目指してとりあえず東京に出てきたが失敗した、というようなことを述べていますが、彼女がもし東京で育っていたら、早いうちに芸術の感性を育み、別の人生を歩んでいたかもしれません。

 こうした点で新自由主義の体制は、人々の「やる気」を削ぎ、オルタナティブを求めても仕方ないという「無気力感」を生み出しています。その一方で、グローバル化する世界のなかで勝つためには、賃金をカットしなければならない、正社員の数を減らさなければならない、といったレトリックが通用しています。こうしたレトリックのおかげで、私たちの生活は閉塞感に苛まれている。マルクスが目指したような「人間性の全面開花」という理想は、依然として抑圧されていると思います。

 アダム・スミスは、『道徳感情論』の第6版の書き換えで、貧富の格差が道徳感情の腐敗をもたらす、との主旨を記しています。格差が広がると、豊かな人はその豊かさを自分の実力の結果だとうぬぼれる。反対に貧しい人は、その貧しい境遇を「自分の能力不足の結果」とみなすようになる。これでは文明が発展しないので、そこでスミスは、市場経済の活性化による階層間移動の流動化と、社会の活力再生を展望したわけです。

 現代の日本社会も、やはり格差社会であり、文明の腐敗が生じています。ただ、この苦境を乗り越えるには、スミスの展望した市場経済の活性化だけでは不十分です。

 

 

 

<弱者排除の福祉国家リベラリズム>

■福祉国家にも限界がありますね

 

 私たちの置かれた苦境を乗り越えるために、新自由主義の体制全体を乗り越えるような、体制のオルタナティブは可能でしょうか。

 現在の体制を本気で消滅させるためには、例えば(1)G8サミットや日米同盟のような先進諸国の協調関係から離脱し、(2)「結果としての所得平等」を推し進め、(3)公共サービスの提供に貨幣原理や選択原理を導入しない、という中央集権的で孤立した国家権力を行使する必要があるでしょう。このような体制は、もしかすると極端な左派と極端な右派の両陣営にとって喜ばれるかもしれません。けれどもこうしたビジョンを実際に主張している人はいません。

 むしろ新自由主義批判の現実的な根拠となっているのは、郵政民営化や年金制度、タクシー業界の規制緩和や派遣社員の業務範囲拡大といった個別の事柄です。ただこれらの制度改革においてすべて自由化を否定したとしても、私たちの体制は「穏和な新自由主義」のまま、でしょう。現実の時事問題は微分された権力の問題にすぎず、体制転換に関わる本質的な事柄ではありません。

 この点が不明確なゆえに、個別の問題を巡っては従来の政治的枠組みでは納まらない錯綜した事態が起きています。例えば郵便局はすでに民営化されましたが、この制度改革において民営化を肯定したのは、新自由主義者だけでなく、市民派の民主主義者たちでもあります。

 郵政問題の一つは、大樹会という政治圧力団体の存在でした。大樹会とは特定郵便局長のOBや妻が会員となって、各地域での議員候補者を選定・支援する団体です。この団体はこれまで、自民党の「集票マシーン」だと言わてきました。もしそうだとすれば、自民党の権力政治に批判的な市民派民主主義者は、集票マシーンと化した政治圧力団体を解体することこそ市民社会の理念に適う、と考えるでしょう。ですからこの場合、郵政民営化に賛成する勢力は、市民派の民主主義者たちでもあったわけです。

 他方で年金制度改革においては、基礎年金制度以外をすべて民営化するという新自由主義の考え方は敗れました。いまの年金制度は、「連帯」の理念を掲げる「福祉国家リベラリズム」の思想にもとづいています。世代を超えて国民が支え合わなければ成立しません。

 しかしこの制度を維持するためには、「未納者問題」に手をつけない、という大前提があります。もし未納者たちが年金を納めるようになると、その人たちに将来給付するための年金支給額が増え、結果として制度を維持できなくなるかもしれないからです。ですから現在、政府は未納者たちに年金の納付を訴えていません。

 政府は、未納者たちは老後、生活保護に頼ってもらったほうが財政的にうまくいくと考えています。つまり現在の年金制度は、未納者たちをシステムから「排除」するかたちで「連帯」を実現するものになっているわけです。

 本来の新自由主義者であれば、こうした弱者排除の論理を有効とみなすリベラル派の思想の欺まん性を告発するでしょう。

 

 

 

<「幸福の神義論」に戸惑う日本人>

■個別の制度改革では不十分だと

 

 郵政民営化にしても、年金制度改革にしても、これらの制度を変えても変えなくても、私たちの社会は「新自由主義体制」のままです。この体制をもっと根底的なところから批判する観点は、道徳的なものであり、問題となるキーワードは「幸福」です。

 例えば戦後日本社会のように、護送船団方式でアメリカ経済を追い越すという「大きな物語」が共有されていた時期には、国民一人一人が日本の経済体制全体に深くコミットメントすることが「有意義」であり、また「人生の幸福」と結びついたでしょう。ところがそのような大きな物語が失われると、私たちは「意味の断片化」に直面し、生きることの意味や幸福の意味を見つけることが難しくなります。

 新自由主義体制において問題となるのは、「幸福の神義論」です。人はたとえ幸福であるときにも、「はたして私の幸福は本当に正当なのか」とか、「私は本当に幸福であっていいのか」という問いに直面し、頭を悩ませるものです。あるいは人は、不幸である場合には、「はたして私の不幸は正当なものか」とか、「私は本当に不幸であらねばならないのか」という問題に悩むでしょう。

 彼氏に抱かれた恋人が、「私、本当に幸せでいいの?」と彼氏に問い掛けるとき、そこには「幸福の神義論」が生じています。幸福な人は、本当に幸福でいいのか。新自由主義体制は、この問いに対して、納得のいく答え(神義)を与えません。同様に、不幸な人は、本当に不幸でいいのか。この問いにも答えを与えません。幸福や不幸の意味は、自分で見つけろ、というわけです。

 そこで人々は、自分の境遇が幸せであることを確認するために、自分よりも不幸な人の生活を観察し、その境遇に照らして自分を納得させる傾向が生じています。フリーターやニートの生活を批判したり、あるいはアメリカのワーキングプアに関する報告を読みながら、自分の生活を慰めたり、ささやかな安堵を感じたりするわけです。

 最近、「勝ち組/負け組」などという言葉で格差社会が論じられています。ところが統計を調べてみると、「勝ち組」と呼ばれる高所得者の比率はまったく増えていません。増えているのは所得100万円台の人々の比率です。つまり給与所得は二極化したのではなく、所得分布の山が下方にシフトしただけです。にもかかわらず、人々は格差が二極化したかのような錯覚に陥っています。この点については、拙著『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)をご参照ください。

 おそらく人々は、自分の賃金がなかなか上がらないことにストレスを感じ、「ワンランク上」の生活を目指すことよりも、「ワンランク下」の生活を観察して、その実態を批判したり、あるいはその生活に照らして自分の境遇を慰めたりするのでしょう。このような後ろ向きの社会を、私は「貶斥(へんせき)社会」と呼んでいます。

 現代の日本社会は、貶斥社会になっている。それで貧困者の生活実態に、大きな関心が寄せられていると思います。

 

 

 

<世界とつながることは幸福>

■「幸福の神義論」に答えはありますか

 

 話を戻すと、新自由主義の体制は、人々の幸福や不幸に正当性(神義)を与えません。では人々の幸福や不幸は、いかにして正当化できるのか。これが新自由主義体制下の道徳問題です。

 私は問題をグローバルに見渡すことが大切だと思います。つまり私たちは、世界の人々が幸福になるための機会と権利を少しでも支援できる場合に、自分が幸福であることの正当性を得るのではないかと考えています。

 そこで、そのための具体的な制度構想として私が考えているのは、トービン税と貨幣発行自由化の混合政策、および、新しい指標に基づく関税率の調整ルールです。ここでは後者の関税構想について少し説明します。

 およそ世界を平和にしようと思ったら、そのための実効的な政策として、諸国を民主化することが必要です。アメリカの国際政治学者、ブルース・ラセットによれば、1815年以降、民主主義の国同士では、正規兵1千人以上の戦死者を出すような戦争は起こっていません。

 そこで私たちは、歴史的な知恵に照らして、権威主義の諸国を民主化すればテロ行為も戦争も大幅に減ると期待できます。ではどうやって諸国を民主化するのかというと、民主化した国に対して関税率を優遇する、あるいはODAを優遇する。このように、「民主化すれば経済的に儲かる」というシグナルを各国に送るわけです。

 しかし民主化を直接促すようなシグナルは、あまり有効とはいえません。政治的軋轢が生じるでしょう。むしろ民主化を間接的に促すために、各国における女性の社会進出度や教育達成度、インターネットアクセス率や、所得平等度など、さまざまな指標に注目して、間接的に民主化に役立つための政策を支持することが望ましい。そこで私は、「自生化主義の関税率指標」という総合指標を提案しています。

 この指標を用いて、指標のすぐれた国の関税率を優遇する。あるいは、私たちが消費者として、できるだけ指標のすぐれた国の産品を購買する。例えば、フィリピン産のバナナよりもタイ産のバナナを買うことで、フィリピン政府に対して制度改革のインセンティブを与えていく。そのようにすれば、フィリピン政府は低賃金でバナナを安く輸出するよりも、公的資金を教育に投資して、人的資本を高めたほうが儲かることに気づくでしょう。

 こうした実践を通じて、私たちは世界を少しずつ改善していくことができるのではないか、と考えています。

 

 

 

<対抗サミット運動の可能性>

■世界大の視点が必要ですね

 

 日常の生活からふっと世界の問題へ、あるいはグローバルな問題へと関心が飛んでしまうような人たちのことを「セカイ系」と呼びます。およそ音楽的な感受性をもった人であれば、自身の感性がローカルな文脈を超えてセカイや宇宙に広がっていくことを、自然に体験しているでしょう。私たちのグローバルなセカイが、たんに商品関係・貨幣関係だけでつながっているとしかイメージできない人は、貧困です。

 むしろ私たちは、そうした貧困なイメージしかもたない経済主導のグローバル化に対抗して、日々の生活のなかで、もう一つ別の「グローバルな公共性」を気遣い、芸術的な感性を通じて、世界大の連帯意識や公共意識を育んでいくことが必要ではないでしょうか。そのようなグローバルな感情(共感)が基盤となって、国家を超える正義だとか公共性というものが、実質的な意味をもつようになるのだと思います。

 今年の夏、洞爺湖でG8サミットが開かれる予定です。現在、このサミットに対抗する諸団体は、オルタナティブな政治運動を企てています。おそらく、「G8サミット反対」と称して洞爺湖に集まってくる人たちは、実際の文脈では、ゲイ-レズビアンの解放だとか、不当解雇に対する法廷闘争など、さまざまな個別の問題に取り組んでいるでしょう。

 しかしそうした人々が、多様な政治的要求を一つの場所に集まって世界に発信し、G8に対抗するエネルギッシュな政治表現へと高めていくことは、大きな意義があります。世界の民衆たちに、「グローバルな共在感」を与えるのです。個別の政治的要求がどのようなものであれ、さまざまな国の人々=マルチチュードが特定の場所と時間を共有し、そこに共有された感情や連帯意識を生み出していく。

 G8サミットは、毎年さまざまな場所で開かれます。けれども、その場所に集まってくる大半の人たちは、G8に対抗的な関心をもった人々です。そのような人々は、毎年、あたかも神聖な巡礼をするかのように集まってくる。集まる場所は、共通の敵がいる場所で、敵に対抗する感情をもりあげようとする。これはいわば、巡礼によるグローバルな共在感の醸成プロジェクト、と呼ぶことができるかもしれません。

 私はこのような運動のなかに、真に豊かな、グローバルな感受性が宿っていくのではないか、と考えています。

 

 

<プロフィール>

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科課程博士号取得。現在、北海道大学大学院経済学研究科准教授。著書は『自由の論法−ポパー・ミーゼス・ハイエク』 (現代自由学芸叢書) 、『帝国の条件−自由を育む秩序の原理』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)など多数。